再放送を追いかけていたなつぞらが最終回を迎え、ついでに大河ドラマも終了。
ということで、現在視聴しているのが海に眠るダイヤモンドだけになりました。
ここまで日常にドラマを見るということが馴染んでいることに驚きつつ、きちんと見るとやっぱり楽しいものだなぁと感じています。
どこまでが決まり?
最近のドラマの流行りとしては伏線回収があるそうです。
要は、色々とちりばめていた要素をきちんと回収して「そうだったんだ!」とスッキリして終わる…というもの。
この回収がきちんとなされる気持ちの良さ、私は映画ラストマイルを見た時に感じました。
だから、その魅力もちょっとは分かっているつもり。
その一方で考察や思考の余地を残してくれる面白さというのもある気がします。
ま、どちらにしてもきちんと物語の軸が立っていることが前提だとは思いますが。
再放送を追いかけていたなつぞら、面白いドラマでした。
最後の最後で、主人公が幼い頃に過去を思い出す際に出てきたアニメが大人になった主人公が作ったアニメ映画の映像であったという回収がなされます。
この要素が無くても物語の質は大きく変わらないとは思うのですが、「そうだったのか!」としっくり腑に落ちる感覚は気持ちの良いものでした。
現在進行形で追いかけている海に眠るダイヤモンド。
こちらは主題歌が入るタイミングがいつも神がかっていて…!
ドラマを見ている時の感動を倍増してくれる素敵な演出だと思っています。
この2つのドラマのそれぞれの要素、いつから決まっているものなのだろう?と素朴な疑問が湧きました。
なつぞらに関しては主人公がアニメーターを目指すという物語の大筋みたいなものは一番最初から決まっている物語の核の部分だろうから、そういうところから派生して早い段階で決まっていたものなのかもしれません。
一方の主題歌。
こちらはどういうリクエストをして曲を作ってもらったのか?と言う部分がキーになって来る気がしています。
ドラマを見ていて「ここぞ!」という絶好のタイミングであの柔らかくて繊細なボーカルが入る…っていう複合的な感動だと思っていて。
以前、私の好きなアーティストさんがゲームの主題歌を担当した時に「エンディングのここでイントロ」という指示書きが最初にあったそうで、そこから「イントロのある曲を作らねば」と思ったという話をしていました。
海に眠るダイヤモンドの場合、あの歌声で曲が始まっているわけで、そういう細かい(?)楽曲制作に関する指示がされていたのか、ああいう曲だったから演出の方法としてあのように使われているのか…。
卵が先か鶏が先かみたいな疑問なのですが、気になってしまったのでした。
白日や三文小説とか、繊細な歌声でガツンと衝撃を受ける感じってやっぱりならではだと思ってしまうのよねぇ…。と言う小話。
なぜなぜ期なのかもしれん
連続ドラマってどこまで決まっているもので、作りながらどこまで変化させられるのか?ってすごく不思議な気がしているのです。
原作モノのドラマで大きな問題になった作品がありましたけど、あれって最終回とかの脚本を原作者さんが急遽担当したとニュースで目にしました。
つまり、ドラマを放送している段階、ある程度プロジェクトが進んだ段階でも変更とかテコ入れ的なことをする場合もあるわけで…。
より良くするための変更とか、思ったより視聴率が上がらない故のテコ入れとか、そういうのってどれくらいの幅が許されているのでしょうね?
私は今まであまりドラマを見てこない人生だったので「なんか流れ変わったな」みたいな、ドラマを見続けているからこその違和感って味わったことが無くて。
そういう表には出てこないであろう裏側がやけに気になってしまった本日でした。
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海に眠るダイヤモンドの話とねっこが素晴らしすぎると思っているただのファンです。
あ、なつぞらは照男兄ちゃんがひたすらずっと好きでした。