どうする家康、第9回目の感想雑記です。
一向一揆の鎮圧までを描いた今話。
やっぱり気になるのは、本田正信でした。
友の誕生。
前回、家康の身近なところからの裏切り者として本田正信が出て来ました。
相手方の参謀をしていたんだよねぇ。
その段階では、「家康へお灸をすえる為」の見せかけの裏切りなのだろうと想像していた私。
しかしながら、彼には彼の意思があり…。
幼馴染で、きっと想い人であったであろう人との思い出が、大きなキーになっていましたね。
「南無阿弥陀仏と唱える人の想い」について、家康に分かっていないと喝を入れていましたが、「南無阿弥陀仏と唱えるだけでどんな人間でも極楽浄土へ行ける」という救いに縋るしかできない弱い立場の人を知っているからこその言葉。
農民はもちろんですが、遊び女もそこに含まれる。
なんなら、農民よりも救いを求める立場としては低いかもしれない職業ですよね。
生きていても地獄しかないのだから、天国へ逝きたいという言葉に、正信はその身が引き裂かれるほどの痛みを感じたのではないでしょうか。
飄々としている人ほどそのバックボーンは重苦しかったりするよねぇ。
友となる。
さて、本田正信って史実では何度も家康を裏切るような行動をとっていながら、家康から「友」と言われていた人みたいです。
優柔不断で武将というには弱すぎる家康。
その周りを家臣たちが支えていますが、彼らはあくまで家臣です。
忠勝でさえも、家臣の一員で友には成り得ない。
そんな中で、正信に叱咤され涙を流して自分の想いを吐露する様は、とても対等に見えました。
多分、ドラマの中でも正信は家康の友として描かれていくのだろうと想像できるようなシーンだったと思います。
弱弱しい主であることを知っていても、そこに対して踏み込むことはしない家臣たち。
それは、主と家臣という立場を明確にしているし、そうあるべき姿なのだろうと思います。
家康に対してはこれからの期待とかもあるだろうし、決して人として嫌っているわけでもないでしょう。
その立場的な不可侵領域にも良い意味でズカズカと踏み込めるのが本田正信。
貴重な存在だよね。
遊び女と歩き巫女
さて、一向一揆は鎮圧され、反抗勢力も散り散りになっていました。
そんな中でふっと姿を消していた千代。
相関図の方では『歩き巫女』と書かれていますが、これって「白拍子と認識しても良いのかなぁ?」と勝手に思ってます。どうなんだろう。
静御前も白拍子ですけども、時代的に戦国時代には廃れてたのかな…?
白拍子、神様へ舞を捧げる神聖なモノと想像されますが、夜伽も仕事の1つだったりしたんですよね。
「肌を重ねることで厄落としをしていた」っていう話もあるくらい。
聖と性を行き来するような、なかなか難しいお仕事であったのだろうと想像します。
それでも巫女であるためか、遊び女とは並ばない。
これがなんか、個人的にとてもしんどいなぁって思ってしまいました。
巫女さんは南無阿弥陀仏に縋らなくてもきっと極楽に行けるんだろうけど、遊び女はそうはいかない。
多分、人々の認識としてもかなり立場や扱いが違うものだったんじゃないかなぁ。
歩き巫女は各所の有力者(武田信玄とか)との繋がりがあって、何処にも属さないスパイみたいな働きもしていたみたいだし、そういう意味ではとても役立つ人たちで、重宝されたのも分からないでもない。
けど、規模は小さくても遊び女だってそういう仕事を担っていた人も居るだろうし…。
それでも認められない人権とか尊厳とか、考えるだけで苦しくなります。
2話続けてしんどかった分、次回は軽やかであることを期待してる。